日本の教育の行方

 日本は、戦後の高度経済成長による好景気に酔いしれ、あぐらをかいて、地道に努力することを馬鹿にするような「おごり」を覚えてしまった。その後のバブル経済の崩壊による長いデフレ経済から脱却できず、アメリカのリーマンショックによっていっそうの経済不況に陥ってしまったのである。さらに金融危機による金融機関の救済のため、巨額の国家財政を投入。また、国民から預かっていた年金を浪費したうえに、外国の国債などへの投資に失敗して大穴を開けてしまったのである。
 このような世相の中で、文部科学省も新指導要領で授業時間の削減と教育内容の簡略化を推進し、子どもに質の高い教育よりもハードルをずっと低くし、学力の評価も絶対評価なるものを導入して、努力してもしなくてもみんな同じで平等だというような誤った平等観を植え付けてしまった。結局、授業時間が不足してしまい1年間でカリキュラムをこなすことはできなくなった。国民には、今まで詰め込み教育で子どもたちの負担が大きかったのを是正したという表現でごまかした。しかし、入学試験にはそれは通用せず、結局は学校よりも学習塾に勉強の比重が移ることになったし、進学校は受験科目に授業を絞って他の受験には関係の無い教化の時間を受験科目の授業に充てるということになった。文部科学省は、単位不足が表沙汰になると早速学校を処分した。そして、荒廃した教育現場で、生徒のいじめや自殺、指導力不足の教師や登校拒否の教師の数が増えてくると、教員免許制度の改革を行い、10年の更新制に変えたのである。このことにより教員免許は文科省が委託する独立行政法人の認める講習を30時間も受講せねばならず、受講のための交通費や宿泊費や時間のやり繰りなど教師は新たな負担を抱えることになった。これでは、教師の精神的・肉体的・経済的負担は大変なものである。
 このほか、教育を「費用対効果」で判断し、田舎から学校が亡くなるような、「故郷を捨てろ」的な教育行政は、教育基本法に掲げた「国や郷土を大切にする心」を育むことなどできるはずが無い。さらに幼稚園と保育所を一緒にした幼保一元化は、幼稚園を保育所化するだけで幼稚園の存続を否定するものである。幼稚園は、働く親に代わって子どもを一定時間預かり面倒を見る所ではなく、れっきとした教育機関である。学校教育法に幼稚園が教育機関であることが明記してある。省庁の力関係がそうさせるのか、はたまた政治家が絡んでいるのか、それとも幼稚園や保育所をサービス業ととらえて事業展開しようとする人たちが政治家や官僚を動かしているのか分からないが、教育はサービスではないのである。未来を委ねられる人間を育てることは、サービスではできない。
 国難にあって国家の存亡がかかっている時に、霞ヶ関や永田町の官僚や政治家は原点に立ち返り、国家・国民のために身を挺して本当の仕事をするべきである。官僚がしっかりしている国は繁栄するが、官僚の堕落した国は滅亡する。自分の地位を笠に着て甘い汁を吸って生きている官僚を飼っているような政府では国は守れないし未来も無い。しっかりした品格のある国家にするには、教育をおろそかにせず、健全な精神と健全な肉体を備えた国民に育て上げねばならない。教育に携わる人間や機関にはそういう使命があることを忘れてはいけない。